今日、3月2日の逆転人生では、歴史的大事件を次々と捜査し、鑑識に生涯をささげた男性が主人公です。

似顔絵発案だけでなく、立入禁止の黄色のテープの発案者でもあったとか!
“似顔絵捜査”も発案!タイ警察の捜査力の向上に貢献。「大佐」の称号もおくられた。未曾有の大災害にも出動

主人公は「三菱重工ビル爆破事件」「オウム真理教事件」などの現場に出動してきた鑑識官。戸島國雄さんは“似顔絵捜査”の発案者でもある。タイに渡ったのは最愛の妻の死がきっかけ。「私の分まで生きて」という遺言を胸に鑑識の技と心を伝えようと奮闘する。当時、まだタイの鑑識は遅れていて、警察官たちからは反発も。彼らの心を動かすきっかけの一つになったのは、ある殺人現場での推理。壁の血痕に秘められた真実とは?
タイで警察の大佐になった似顔絵捜査発案者、戸島國雄さんとは?

【戸島国雄(とじま くにお)】
1941年生まれ、1960年自衛隊入隊(習志野第一空挺団24期生)、1965年警視庁巡査、1970年より警視庁刑事部鑑識課現場写真係になる。三島由紀夫割腹事件や日航機123便墜落事故、連続企業爆発事件、幼女連続殺人事件、トリカブト保険金殺人など数々の有名事件事故を担当
1995年 JICAの専門官としてタイ警察庁に派遣され、犯罪捜査および現場鑑識の指導に当たり、1998年に帰国
2000年9月 似顔絵専門捜査官001号に任命され、2001年警視庁を定年退職。在任中警視総監賞など107回受賞
2002年より再びタイに派遣され、警察大佐として2011年7月まで活躍

戸島さんがタイ警察にかかわるようになったのは1995年のことでした。
当時、警視庁鑑識課に勤めていた戸高さんは、
JICA(国際協力機構)が派遣する専門官としてタイ国家警察庁に派遣されたのです。
そのころ、タイでは事件現場に、マスコミも野次馬も現場に入り放題が当たり前で、
現場保存という概念が乏しかったそうです。
戸島さんはその現状から変えようとしましたが、
タイ語ができるわけでもなく、知り合いもいない状態からのスタートで、
誰も話を聞いてはくれませんでした。
そこでJICAが用意した高級住宅から、普通のタイの人たちが住む下町のアパートに引っ越し、
多発する事件や事故の現場に必ず顔を出すようにしたそうです。
そうして一緒に捜査し、同じ屋台で食事をする、などするうちに信頼関係ができていきました。
戸島さんは、自ら撮影したタイの事件事故の写真を使い、タイ語で鑑識技術の教科書を執筆しました。
現在でも戸島さんが作成した教科書はタイ国ポリスアカデミーで使用されています。
戸島さんが警視庁で開発し、1993年に警視総監賞を受賞した「立ち入り禁止テープ」も
タイで使われるようになりました。
1998年にJICAの任期が終わり、戸島さんは日本に帰国。
しかし、2001年に警視庁を定年退職すると、タイ国家警察からの指名で2002年に再びタイに着任しました。
警察大佐、というトップから4番目の階級も与えられたそうです。
今回の番組では、さらに波乱万丈な戸島さんの人生について明かされそうですので、

KEEP OUT(立入禁止)の黄色いテープは戸島國雄さんがはじめに作ったの!!すげぇ!! #tvtokyo

— you_ishii (@you_ishii) March 5, 2010

戸島さんは1941年、山口県に生まれました。

タイで警察の大佐になった似顔絵捜査発案者、戸島國雄の経歴や妻は?逆転人生 image 2

子供の時はやんちゃで地元の警察に呼ばれ、柔道でしごかれたそうです。
その警察で柔道を教わった先生の勧めで1960年に陸上自衛隊に
入ることになりました。

落下傘部隊である習志野第1空挺団に入り、自衛官をしながら夜間大学を卒業。

1963年に警視庁に入ります。
空挺団出身ということで本部の機動隊から推薦状も来ましたが、警察学校の講義で
事件捜査を左右するのは鑑識だと知り鑑識を希望しました。

そこからは警視庁刑事部鑑識課一筋。
日航123便墜落事故やトリカブト殺人事件、オウム真理教事件などの大事件の捜査
にかかわりました。

似顔絵捜査のスタートは1976年。
当時はモンタージュ写真が主流でしたが、男に襲われた被害者の女性が何度も犯人の人相を聞かれ
困惑しかわいそうだと思った似顔絵を始めます。
時間がかかるモンタージュより記憶が鮮明なうちに欠ける似顔絵のほうがいいと考えたそうです。

やがて似顔絵は捜査手法として確立。
2000年に新設された「似顔絵捜査員」制度の第1号に任命されました。

【3月2日夜】「オウム真理教事件」など多くの現場に出動、“似顔絵捜査”の発案者でもある鑑識官・戸島國雄さん。妻の死がきっかけで、タイへ。現地の警察に鑑識の技と心を伝えようと奮闘。警察官たちの心を動かしたある事件とは…?[総合]
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— NHKドキュメンタリー (@nhk_docudocu) February 29, 2020

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タイへ
ある日奥さんが急に体調を崩し看護師長を務めていた病院に入院することになりました。
1994年3月、奥さんは53歳の若さで亡くなってしまいます。
白血病でした。

その後、オウム真理教の毒ガスサリン事件が起き、捜査に参加。
その捜査が終えた秋、国際協力隊員としてのタイ行きを上司に勧めらました。
ひとり身になって沈んでいるところを心配されたのでしょう。
タイでの鑑識指導は奥さんからもらった第2の人生と考えているそうです。

1995年11月、国際協力機構(JICA)の指導員としてタイ国家警察科学捜査部に
初めは2年間の予定で向かいます。

現場は危険だからセミナーを行うだけでいいと言われましたが、現場へ出向。
規制線のテープ張りから始め、ゴム手袋も導入。
実績を上げ、タイ警察首脳から全国の鑑識幹部に基礎を指導するよう、公式に命令を受けました

1998年に日本に帰国し警視庁に復職しますが、タイ国家警察から再訪要請を受け
2002年にふたたびタイにわたり、若手鑑識官を育成中。
日本でいえば警視正に相当するタイ警察の警察大佐を拝命しています。

2004(平成16)年12月26日に発生したスマトラ沖地震によるインド洋大津波では身元確認に従事しました。

翌日、10名の部下を率いて最初に最も被害の大きかったバンガー県の被災地に入ります。

そして、3か月にわたり被災者の指紋照合による身元確認に当たりました。

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この津波被害では、4,000人分もの指紋を採取したのだそうです。

被災地周辺には宿泊施設がなく、寺院の軒下で寝泊まりしながらの捜査でした。